たまめ的生活記録

日々で思ったこととか、技術的なこととか。

歪んだ自分と向き合う話

ここ数日某社のインターンに行っていて、人と議論することが多い。
その場で自分がやっていることは今までしてきたこととだいたい近い気がする。
自分から新しく発言することはあまりなくて、人の発言を聞いて、自分なりに解釈して、ところどころでまとめようとする。 高専の頃は実行委員長として最初からまとめたり新しい発言をしていたけど、その前段階。

そのことをメンターに話した時、「本当に自分から発言しないことが最善なの?」とか「その役割がチームにとって最善なの?」と聞かれた。
たぶん今のあり方を否定するわけではなくて、「それが本当に正しいのか」「ほかの手段はないのか」ということを考えて欲しいんだと思う。

今日幡野広志さんの「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。」を読んで、人の在り方について感化された上、チームメンバーの日報を読んで「まずいことをしたな」とはっとさせられることがあったから、自分のことについて考えてみる。

「なぜ、新しい発言をしようとしないのか」

メンターにそう聞かれた時、僕は「自分が発言してそれを否定されるとすごく反発してしまう」と答えた。これは僕が23年間生きてきたなりに見つけた自分の性質だ。

すると今度は、「なぜ反発するのか」と聞かれた。「たぶん、自分の考えが正しいと思ってるから反発すると思うんだよね」とも言われた。そして最後には、「なぜ反発するのか、なぜ正しいと思うのか、その理由を見つけて欲しい」という。

正直、勘弁してくれと思った。
それは自分が薄々感づいていて目を背けていたことだったから。気づいていないふりをしてきた部分だったから。

けどきっとそれをはっきりさせることは、自分が理想としている人間になるためには避けて通れない壁だと思うし、その機会を与えられたのだから、向き合おう。

「自分が正しい」

メンターに指摘された通り、「否定されると反発する」の一番近い原因はこれだと思う。
議論を重ねる中で、自分の発言した内容に「いや、そうじゃなくて」と訂正が入り、その説明を受けている間、自分の中で急速に苛立ちの感情が芽生える。 今すぐに耳を塞ぎたくなるし、机をひっくり返して殴りたいとさえ考える。

なんでそんなことを思うのか。
それは過剰なまでに、僕は「自分が正しい」と思っているからだ。

「自分が一番だ」

正直、僕は自分のことをナルシストだと思う。
今の自分が好きだし、自分の考えが好きだし、自分はイケてると思いこみながら生きている。
けどこれは、決して健全な自己肯定感なんかじゃない。もっと歪んでいて、どす黒いものだ。

両親は、僕が幼い頃に離婚した。
夫婦が揃った家庭を僕はほとんど覚えていないし、末の弟に至っては2歳だった。
最初は母親が僕たちを引き取り、二年半ほどで父親へ移されることになった。
その間、僕は母親から父親や父方の祖父母に対する恨みつらみを聞かされ続けていた。
本当はもっと楽しいこともあったのかもしれないけど、覚えていない。

何はともあれ、健全じゃない時間を過ごした。
その頃、無意識ではあれど「自分はこんな人間にはならない」と思ったのだと思う。
僕にとって両親は「親のいる家庭」を奪った加害者でしかなかったし、その瞬間に両親は僕にとって親ではなくなった。
それと同時に、自分もおかしかった。弟とは毎日喧嘩をした。喧嘩というより家庭内でのいじめだった。

そして至った考えが、きっと「自分が一番だ」というものだった。
親を諦め、家族を諦めた僕に残されたのは、自分自身しかいなかった。
この「一番」にはいろいろ意味があって、人の上に立つという意味での一番であろうとしたし、自分を大事にするという意味での一番であろうともした。 そして、小学生の頃に至ったこの考えは今の自分まで続いている。

だから、すぐにマウントをとろうとする。

きっとこれは誰が悪いとかいう話じゃない。環境のせいとも言いたくない。
これは僕が選んで、至った結論だ。

「劣っているはずがない」

「自分が正しい」、「自分が一番だ」と思っている人間が、自分より能力のある人間に出会うとどうなるか。
答えは簡単で、どうしようもなく激しい嫉妬と羨望にとらわれる。

たとえば課題を出されて自分よりも早く解くことができる人がいたら、僕はその人をすぐ嫌いになる。
「自分はこいつなんかより劣っているはずがない」と思い込もうとする。 ただ、そのうち関わる中で好きになっていくのだけれど。

僕の他人に対する第一印象は、たいてい「嫌い」だ。
すぐにマウントをとろうとするから、人のいいところより悪いところを探そうとする。 そして自分より優れていそうな部分があると、一気に反発する。
自分の発言を訂正されると、怒り出す。

さすがに言葉や行動に移すと問題になることはわかっているから、内側に留めておくけれど。
きっと自分は、そういうロジックで動いている。

「それが性格だから」で終わらせない

思いつきで書き始めたし、まだ考えを深めきれていないから、これが答えというわけではないかもしれない。 ここまで書いたことは僕自身が日頃思っていて、その上で気づかないふりをしていたことだ。
いわば汚点だ。

僕は自分が正しいと思っていて、誰よりも一番だと思っていて、僕より優れた人間は認めないと思っている。たしかに、純粋にすごいなと思ったり尊敬したりする人はいるけれど、それは数少ない例外だ。
だからといって、このままで生きていくわけにはいかない。

僕はもう見てしまった。目を向けてしまった。意識してしまった。
自分の中の問題を問題と知ってしまったからには、解決しないといけない。

人と話していて、「あいつのああいう所好きじゃないんだよ」みたいな話がでたときに、僕はよく「それが○○年生きてきたあいつの性格だから」という言葉を使う。
高専時代の先輩が使っていた言葉で、他人の変化を諦めるすごく便利な言葉だ。

他人の性格を変えることは難しいし、本人が望んでいるかどうかもわからない。
けど、自分の性格だったら全く違う話だ。

これまでに書いた僕の内面は「僕が23年間生きてきて出来上がった僕の性格」だ。
けどこのまま生きていくわけにはいかない。
自分の性格なら、自分で変えられるかもしれない。

だから今日から、少しずつ他人を認めて行けるようになろうと思う。
きっと長い時間がかかるし、死ぬまでできないかもしれないけど、それでも、今より素敵な人間になりたい。

生きるって難しい。

2018年9月11日追記「完璧主義者」

今日自分を振り返っていて気づいた。
僕は完璧主義者な傾向がある。
だから人に訂正されたり、自分が間違っていると認めることがなかなかできないのだと思う。

だいぶ納得できた。